千石100年の庭と家

文京区は千石で、昔ながらの家と庭の残る暮らしを小さく続けるための試みです。

一階のよろこび

先日、娘と学校から戻ってきたら、玄関で自転車を入れる様を見て、近くの友人が寄ってくれました。SNSでのおしゃべりのつづきをちょっと続けて、ほっとして。その後すぐに、別のご近所さんとおかずのわけっこをして、娘と送り合って、すぐにまた家に戻りました。

 

私の住む家は、2階建ての長屋です。玄関を出るとすぐ、外の世界がある。娘と暮らすようになってからというもの、もともと出不精のわたしには、すぐに外に出られるということは、なんともありがたいことです。友人のひとりが、「ガラガラ」と引き戸を横に開ける扉のことを、「きれいな境界線でいいね」と表現してくれましたが、まさにそれ。閉めてしまえばもちろん、自分たちだけのお家なのですが、少し開け放つだけで、自分と世界がリンクしていること、この世界に自分という存在がくるまれていることを素直に感じることができます。そう、外の世界は、決して、危険なだけのものではない。すぐに出られるということは、すぐに戻れることでもあり、外と繋がった暮らしは、顔を覚えてもらえる暮らしです。母子の時間が長く、人が好きな私にとっては、とてもよろこびのある環境です。

 

もともと日本の家づくりは、自然換気、窓を開け放って、自分と世界との境界線をあいまいにひくことで成立していました。それは、毎日移り変わる湿度と温度、光の具合、虫の声や花のかおりとともに、世界=自然の一部となって生きることです。*1

 

翻って現在建設されつつある高級マンション、特にタワーマンションの考え方は、人口換気。窓は基本開けないで、外の世界と自分の家を遮断して、プライバシーを最優先に生活します。それは、住まいの環境をまるごと、人工のもので覆い尽くすことです。もちろんその安心感、便利さは代えがたい。けれど、存在そのものがまだ、自然のほうに近いちいさな子どもにとって、それが果たして本当に最適な環境かどうか。タワーマンションというものが日本に建設されはじめて、まだ日も浅い。鳥の声も聞こえない部屋で、母子ふたりの孤独はいっそう耐え難いものにならないか、とも思います。

 

同じことは、高齢者向けの施設にもいえます。ここ千石にもいくつかあるそれは、一見マンションのような外観で、おそらく中の個室では、ひとりひとりがテレビをみながら過ごしている時間が長いでしょう。わたしの祖母がそうだったように。けれどもし、その施設に、小さなお庭と縁側があったなら。テレビの景色は流れども、コミュニティをつくることはできません。もし縁側に、まだ元気なみなさまがいらしたら、通りがかる子どもたちはどんなによろこぶことでしょうか。名前を知らなくても、通り過ぎるだけで、見守られている気持ちにお互いがなる、そんな空間は、一階だからこそ、生成可能なのです。

 

もともと、振り返れば山、という環境に育ち、小さい頃から自然のありがたさを肌身にしみて育ちました。文化度の高い都市生活に憧れて、東京生活のほうが今は馴染み深いです。けれど、子どもが生まれてこのかた特に思うのは、人為ではない、自然のやさしさ、豊穣さです。

 

忘れられない記憶があります。あれは幼稚園の年少、年中あたりの頃でしょうか。なんのきっかけか、お友だちと遊べずに、園庭に向かってひとり、座っていたときのことです。お母さんもいる、先生もいる、心が通わないのはわざとじゃないと子どもながらにわかっている。今思えば、特に幼い子どものこと、感情をぴったりとしたことばにする技術がなくて、自分でも持て余していたのだと思います。そのとき、見えた景色はわたしにやさしかった。つまらない日でも、悲しい瞬間も、木はいつものように笑っている。風が気持ちよく通り抜け、土はあたたかく足をなでる。ここにいてもいいのだな、と感じた初めての経験だったように思います。人間どうしでは、どうしても埋められない隙間がある。そのやさしさを、わたしはすべての子どもに、もちろん大人にも、感じてほしいと思うのです。

 

そんなことを考えながら、週末はちょこちょこと、この2冊を読み進めようと思います。

 

マイパブリックとグランドレベル ─今日からはじめるまちづくり

マイパブリックとグランドレベル ─今日からはじめるまちづくり

 

 

こどもを育む環境、蝕む環境 (朝日選書)

こどもを育む環境、蝕む環境 (朝日選書)

 

 

 

 

 

 

*1:もちろんこれからの季節、虫との予期せぬ出会いは避けるべく、急ピッチで対策中です