千石100年の庭と家

文京区は千石で、昔ながらの家と庭の残る暮らしを小さく続けるための試みです。

地域のなかで何かを「する」ということ

 雪かきのことを書いてから、自分自身の心身の棚卸しも起きまして、1ヶ月ぐらい寝込んでいました。小さな子どもがいると、結構そういう「いきなり休み」に慣れてきます。そして、そのたびに様々な予定をキャンセルし、都合し、、としていくわけですが、その過程で、実は今ではなくてよかったものがわかったり、ただただ休むことで頭が整理されたり、思わぬ恵みも多いように感じています。

 

 というわけで、今回は、地域で何かをするときに突き当たる「弱さ」について。

 

 いわゆる「地域活動」ほど、様々なステイクホルダーが存在する社会活動はないと思います。老人、子ども、障害者、専業主婦…いわゆる「フルタイム社会人」ではない人がここでは主役です。そして、「地域住民」とは、そこに住んでいる人、という以外のことを意味しません。要は、誰だっていい。地域のカラーはもちろん存在しますが、そこからはみだす人――収入と社会的地位を兼ね備えた強者たちから、家も職もありやなしやギリギリの人、さらには外国籍の人や各種施設入居者まで、全てを含みます。

 生活が変われば、ベースになる価値観も変わる。つまり、「普通の生活をしていたら出会わない人」、「理解できない・したくないと感じる人」のニーズや感情に配慮しながら、物事を決定する必要がある。資本主義的な効率と営利を追求するのとは別の態度で、問題を解決することが求められます。

 

 要は、「あいつ嫌だな」と思っても、「じゃあ縁を切る!」ってできないんです。なぜなら、ご近所さんだから。顔見知りはだいたいつながってるし、自分にとっては許せない相手が、家族や友人の大恩人かもしれない。大災害があったら、否応無しで協力の必要が生じるでしょう。同じ地域に住んでいるということは、それだけで、運命共同体になり得るのです。呉越同舟

  そのために、自分と相手の「弱さ」を認めることが、地域活動ではことのほか大事に思います。小さな弱さでいい。体調を崩しやすい、時間を守れない、うっかりすることがある、挨拶が苦手…、、そうした、「完璧な社会人」にはなりきれない部分がふっと出てきてしまうのが、生活者としての人間そのものだから。

 

 社会的包摂とか、「弱者を排除しない」と、ことばにすると短く、当たり前のことのように思えます。でも、そういう態度はまず、

○完璧ではない自分を認めること

○完璧ではない他者と「ともに」生きると決めること

この2つを、地道に、時間をかけて自分にインストールしていくこと、それが大事なのかな、と思っています。

 

 ちなみに本記事は、千石で尊敬しているあるお母さんから影響を受けて書いています。彼女のすごいところは、けっして相手を排除しないこと。相手の気持ちをいったん受け止めつつ、より明るい方に転換させる名人。素敵な人がご近所さんっていうのも、うれしいものです。