千石100年の庭と家

文京区は千石で、昔ながらの家と庭の残る暮らしを小さく続けるための試みです。

なぜ「よさ」を語るのか

2018年になりました。年末年始はどうお過ごしでしたか。うちは、一家揃って風邪をひいて、気がついたらあっという間にお鏡開きになってました。

 

町や暮らしの風景を考える際に、「それってでも、守るものなの」という議論があります。町や暮らしは人々の日々の営みの中にある。生活が変化し、暮らしぶりが変わったら、風景も変わって当たり前。それが経済発展だし、復古主義になったらいつまで戻ればいのか、じゃあ江戸に倣って電気なんて使うなよ、みたいな言い方だってされることもある。

 

それは重々承知の上で、わたしは、いま住んでいる千石のまちーーまた、東京の風景は、資本主義の侵食が入りすぎないよう、明確な意思を持って守り続けることが必要だと考えています。

 

2010年代も終盤に入りました。東京では、2020のオリンピックを旗印に、今日もたくさんの再開発が行われています。都市の高層化・人口集中はいまだ歯止め掛らず、空き家が問題となっている最中、投機対象としてのマンションが次々建設されています。かわりに失われているのは、都市の中にあったちょっとした隙間ーー空き地や路地、木造建築や銭湯といった、古くから生活の中に自然に溶け込んでいた、コミュニティの生成地です。

 

日本文化の中心には沈黙があります。語られざることこそが大切で、大事なことは口から口に語られこそすれ、文字にされることはない。もしくは、誰もがあまりに日常的に・習慣として行なっていることにこそが宿るものがあるので、それをことさらに取り上げることは、無礼なのかもしれない。暮らしの空間である住空間や、木造建築、家や町並みに関しても、それは同じです。上品でつつましい「閑静な住宅地」、「活気ある商店街」は、それ自体、その良さを喧伝したりはしない。

 

そのままでよいなら、そうしておけばよいし、あえて言挙げすることにはリスクも伴います。形骸化のリスク、注目を集め陳腐化するリスク、模倣され・批判されるリスク。何より怖いのは、あえて言葉にすることで、「ごく当たり前のこと」が「特別なこと」に変わってしまい、書き文字という過去に閉じ込められてしまうこと。

 

でも今は、人々の日常の暮らしの前提が、もしかしたら、書き換わってしまう時代かもしれません。一つ先の世代のマジョリティはもう、商店街とか畳での暮らしや、家に神棚があったことなんて伝説になっているかも。帰る田舎は都会より都会化されていてーー誤解を恐れずに言いましょう、アメリカの郊外そっくりになっていて、「となりのトトロ」の風景なんて観光地にしか残されておらず、木造建築や数寄屋造は寺社か文化財のみ、それがスタンダードになっているかもしれません。すでに衣食住の「衣」の世界では、ほとんどの日本人の日常着は「洋服」というグローバルスタンダードに集約されています。効率や生産性、合理性といった資本主義にのっとった価値観で物事を進めていって、残るのはグローバルで画一的な風景です。

 

 変化はそれ自体美しさを伴いますし、常に日本文化は外来のものを珍重し骨肉化してきたものだから、自然な流れかもしれません。日本化されたアメリカの風景特有の面白さ、キッチュで素敵な面も知っています。けれど、たった戦後の数十年に移植された風景だけが、その前何千年も培ってきた日本の風土を覆い尽くしてしまうことには、個人的に疑問があります。多様性という観点からしても、いままで語られなかった「普通の街の、普通のよさ」について語る試みはあってもいいのかな、と思う次第です。

 

ひゃー、固いなあ、年初めから。

今年もよろしくお願いします。