千石100年の庭と家

文京区は千石で、昔ながらの家と庭の残る暮らしを小さく続けるための試みです。

公私のあわいをつなぎなおす

いよいよ年末。件の大掃除を今日やる予定だったのですが、予想通りいままだとりかかり0、です。おせちも今年は3つぐらいにしようかな… 

さて、今年は本ブログをはじめた年でもありました。読んでくださっているみなさま、この場を借りて、ありがとうございます。更新をSNSにアップすることもなく、ほぼstand alone じゃないかと思っていたのですが、読みに来てくださる方、感想を伝えてくださる方もいらっしゃって。感謝です!!

 

長屋だったり、一軒家、に深い愛着をもつわたしなのですが「それっていいよね」と無批判に伝える前に、「一軒家や小さな集合住宅の多い町並みと、タワーマンションで構成された町並みは何が違うのだろう」と常々、考えていました。ここでいう前者はおもに2、3階建てで、大家さんや管理人は近隣在住の個人か小規模不動産業者。後者は5、6階建て以上の鉄筋コンクリート造で、大手デベロッパーといわれる、いわゆる大きな建設会社によるものを指しています。

 最初に言いますが、わたしだって実家はばりばりの高層マンションで、その良さも実感しています。そして、千石の場合も、一度は少子化が進んだところに、大手マンションが次々建設されたことによって、小さな子どもを抱えた共働き夫婦の受け皿ができ、こうして、子どもがいっぱいの街、が実現されています。一概に是非を言いたくはないし、両者が共存する町並みが最高だと思っています。

 

 それでもあえて、「一軒家」を推したい理由があります。

 町並みのもたらす「プライベートとパブリックの境界線」ーー公私のあわいのグラデーションの豊かさと複雑さが、一軒家や小さな集合住宅地帯と、タワーマンションが立ち並ぶ一角では大いに異なるのです。

 

◉一軒家・小さな集合住宅地帯ーー水墨画の境界線

 一軒家や小さな集合住宅が立ち並ぶ一角を想像してください。文京区在住の方ならきっと思い出せるでしょう、不忍通りや白山通りを一本入ったところにある、あれです。細い路地に家々が立ち並び、古い家、新しい家、家からせり出した庭木の枝や花咲く植木鉢。多くは一方通行で、中には石畳の細い横丁だってあるでしょう。洗濯物が干されていたり、自転車がとめてあったり。そう、そこに表現されているのは、なかに住む住民たちのプライベート空間と、「路地」という、ご近所さんだけを主な対象としたパブリック空間のあいまにある場所です。丹精こめられたいわゆる「美しい」植木だけでなく、ちょっと危なっかしく置かれた鉢や少しはみ出した雑多な荷物まで、そこには、様々な世帯・様々な嗜好をもつ人の無意識的な表現があります。

 たまたまそこに入ってしまったとしたら、わたしたちはきっと、そうしたものたちを目のはじで愛でながらーーさりとて凝視は失礼だなと緻密に計算をしたり、無意識に、足を載せる石畳を選びながら歩くことでしょう。小さな頃に親と手をつないで歩いた横丁で、「そこはよそのお家よ」と制した母の声がうっすら脳裏にひびくかもしれません。そうした場所を歩くこと、そうした場所に住まいを構えることで鍛えられるのは、公私のあわいを水墨画のように緻密な濃淡でとらえ、人や空間との間合いを掴む技術です。わたしたちは知らず知らず、ちょうど床の間がそうであるように、自分が居てよい場所と、足を踏み入れてはならない場所を、身体的に見分け、知覚することができます。

 

◉タワーマンション地帯ーーデジタルの境界線

 では一方、タワーマンションが立ち並ぶ一角ではどうでしょうか。

 大きなマンションにはだいたい、オートロックの玄関ポーチの前に、植栽のあるスペースや、フラットな空間があります。下記掲載の参考書籍によれば、そこは法的に位置付けられた「パブリックスペース」だそうです。しかし、実際にその場を歩いてみたことがある方なら想像のつくとおり、そこはくっきりと「そのマンションの敷地」です。そこは、個人ではない誰かーー多くは建設主が契約した管理会社や、そこが派遣してくる専門の人によって管理され、決まったように整えられている場所です。個人の嗜好や生活の趣味は反映されない、いわば人格を持たない空間です。そしてマンションの外側は、同じく、洗練され、すっきりと、整えられていますーー中に住む人々の生活が露呈しないよう、多くの目隠しと、秘密を含みながら。その場で感じられるのは、そこはかとない排他性であり、個人のいない空間です。オートロックという構造自体、安全性を最優先してーーそのマンションに関わらない人をすべて締め出すための、排除の装置、ととらえることもできる気さえ、します。

 そうした街を歩くとき、わたしたちは、すでにくっきりとひかれてしまった公私の境界線の外側をまわりつづけることになります。自分の身体で考える必要のない、整えられた空間。住民にとっても、「わたくし性」ーーー個人の趣味嗜好や文化、表現、思いは、内へ内へと内向し、「うちはうち、そとはそと」の感覚が強くなるような気がしています。

 

 人はその育った時代によって、「間合い」が全く異なるのだと思います。見知らぬ人とどのように声をかけ、仲良くなっていくか。どの程度の人を身内とみなし挨拶するか。

 ご近所さん、地域コミュニティという社会関係は、会社や家族のようなわかりやすい秩序がないぶん、いっそう複雑で重層的な関係によって成り立っています。年齢も背景も全く違う、他人でいる自由もある、でも、もし天災が起きれば利害関係を共有するかもしれません。そうしたときに、こうした「公私」のあわいを身体でするどく見極め、適切な挨拶ができること、それがわたしには、目指したい大人の姿です。それには常日頃から、多様な価値観・場所性の混ざり合いの場としての町並みに生活することが、自然な感覚として、鍛えてくれるのでは。外とうちとをきっかりわけて、ともすれば同質な人だけとつながりたいわたしたちの気持ちを、ただ町を歩くことによってでも、少しずつ開かせてくれるから。

 決まった人とだけよりは、多様な人と付き合えた方がいい。だってそこには発見があるから。たくさん傷つくかもしれないけれど、その向こうにそれを忘れさせるよろこびがある、わたしはそう思っています。

 

最後に、本のご紹介を。 

bookclub.kodansha.co.jp

 

この本に出会ったのは、2016年、実家にて。頭をがつんと殴られたような衝撃があり、そして、「ぼんやりとした実感を立証してもらった」ようなありがたさがありました。本ブログに関心を持ってくださった方には、建築、まちづくり、地域活動、子育て、、どんなトピックであってもきっと、ヒントがあるはずです。年末年始の一冊に、どうぞ。

 

皆様があたたかい年を迎えられますよう、心からお祈りしています。