千石100年の庭と家

文京区は千石で、昔ながらの家と庭の残る暮らしを小さく続けるための試みです。

雑然とある自由

年末が刻一刻と迫ってくると、クリスマスの準備に気合を入れるお家、おせち作りに腕まくりのシェフか主婦、今年のうちにやることリストに青ざめるお仕事の人、あるいは「うちは旅行か寝正月」と決め打ちのお家もあると思います。

おそらくこの時期もっとも、日本の家庭で人を悩ませるのが、大掃除の存在でしょう。うちもやらなきゃと思いつつ、まずそもそも「掃除の前に片付けないとなあ」というのがありまして、、。積み上がった書類の束たちを、さて、どうしていこうかと。

 

少し前、twitterでこんな論議が盛り上がりました。

togetter.com


賛否両論は様々で(この手のtwitter、あるいは子育てに関するトピックでよくあることですが)、なかには「日本地図をトイレに貼ればいいなんて短絡的」「そんな物のないおしゃれ新婚家庭なんて存在するのか」みたいな意見もあったようです。

個人的にはしかし、新井さんのおっしゃること、一理あると思っています。

一昔前の、2、3世代が同居していた「家」を思い浮かべてください。そこには、狭い、あるいは広い生活空間に、様々な世代に属する物が置かれています。おじいちゃんの孫の手の隣に、赤ちゃんのお手拭きが。おばあちゃんの婦人雑誌があれば、おかあさんがそっとへそくりで買った、とっておきの口紅も隠してある。お父さんが結婚前に集めたレコードの束だってあるかもしれない。そこには、様々な年齢とカテゴリー、趣味や生活に属したものたちがあります。一人一人の生活必需品、そして趣味嗜好はもちろん違うから、そこで育つ子どもはそれだけ多様な「文化」と接することになります。

話は人だけに止まりません。一昔前の、少し大きめな日本家屋を想像してください。「なんだかわからないけれど、上がったら怒られる」床の間は、わざわざ口に出して語られなくても「この世には、気軽な気持ちで触れてはいけない場所がある」ことを伝えてくれました。家のなかにある、なんだかわからない空間。そこは、宗教性への入り口であり、敬虔なものへと人を導く空間でした。洋間と和室がとなりあい、神棚も仏壇も習合してると思えば、トイレにだって和洋がある。「家」というのが、単なる住まい以上の、多様な文化と触れ合う場として機能していることになります。

日本文化を語る際に「二重性」というキーワードが使われたころがありました。外では洋服、家では和服。外ではスーツに手袋でおしゃれしてきた若いご婦人が、家についたら浴衣でしゃなりとしてみせる、日常生活の中で、自分の欲求を和洋に「翻訳」することが可能だったわけです。けれど翻って、2017年の日本は。都会のマンションでは、生まれながらにして、生活の場としての床の間や神棚をもたない子どもが大半です。暮らしが変われば、身体が変わる。身体が変われば、ある本を読んで何を実感として「わかる」かも、大きく異なってきます。現在のわたしたちには、もはや、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』に描かれた日本家屋の暗さを実感することも、唱歌で歌われた「めだかの学校」をこの目で見ることも、きわめて珍しい体験となっていることでしょう。それはとりもなおさず、文化の記号化を意味します。

 

いま再び、雑然とある自由を。家という空間に、整然とした誰かの美意識だけが貫かれている必要はない。新井さんは文字のない家をさして「文字砂漠」と呼びましたが、様々な文化的蓄積のない家をここでは「生活砂漠」と呼ぶことだってできましょう。家がちょっとぐらい雑然としてたって、かまやしないのです。子どもは、あるものはあるように、ないものはないように、学んでいくのですから。そして街だって、様々な年代に建てられた、様々な個人の趣味が反映された前庭や外観をもつところの方が、歩いていて、得られる文化的刺激は大きいと思います。

 

・・・ともあれ、あの本棚、今日も落ちてきたしなぁ。大掃除がんばりましょう! 全国の、家を愛するみなさん。