千石100年の庭と家

文京区は千石で、昔ながらの家と庭の残る暮らしを小さく続けるための試みです。

まちは誰のもの?

東京じゅうがそうであるように、いまここ千石でも急速な建設ラッシュです。だいたいが都市型高層マンションで、広告は特徴的なマンションポエムによって彩られています。ですが、最近うちの近隣で気にしているのは、住宅地のそばに、小さな商業施設ができるかもしれない、という件です。

 

件の土地は、千石は4丁目、商店のある通りから一本入った空き地にあります。周り中はだいたい一軒家で、昔から住んできた人の多い通り。そこにある日、ぽつんとカプセルホテルの建設計画が出ました。最初は半径200メートル以内の近隣向けの説明会を予定されていたのですが、ここは都会の村・千石、口から口へ情報はまわり、4つある町会を巻き込んでの大きめの説明会が何度か開催されています。住民側と建設側の折り合いはつかず、わたしも最初の説明会に少しだけおじゃましたのですが、色々なことを考えていたたまれない気持ちになりました。

 

まち側の主訴としては、ひとことでいえば、治安の問題、周辺環境悪化です。宿泊施設ってそもそも必要? なぜここで? と。一方会社側の立場になってみると、オーナーさんからその土地を預かっているわけで、収益率や過去の業績も加味して、最適な計画を立案した結果のことだと思います。仕事ですから、目標や実績、社員のみなさまも食べていかにゃならん。その気持ちも正直わかるような気もしてしまい、切ないことだなと思いました。

 

それでもわたしはやっぱり、まち側の気持ちに立ってしまうのですが、真の問題ってなんだろう、と考えていて、生活を共にする=住む わけではない方が、ここで商売をすることへの違和感、つまりは、「住むための町なのか、商売のための町なのか」という問題なのかも、と思い始めました。

 

◉実感としての「住宅地」

そもそも、商業地か住宅地かというのは、基本的には都市計画法という法律で詳しくその区分が設定されています。今回の場所も基本的には商業地なので、法律的には何も問題ありません。

とはいうものの、、実際に近隣にすみ、毎日そのあたりをぶらぶらしている住民からすると、そこはれっきとした住宅街。夜は静かで、何より、昔からの知り合い同士が仲良くやってきた、人々の暮らしの拠点なのです。法律には明記されていなくても、実感、というのは、住む人が共有する大切な財産です。食事のまえに「いただきます」をいうのが、誰かのルールでなくても、豊かな食文化を営々と築いてきた日本文化の一部であるように。

話はここだけでは終わりません。ひとたび商業施設ができれば、前例になります。このご時世、手放さざるを得ずに空いた土地に、どんどん他の業者さんが来るかもしれない。未来のその方たちと、まち側が調和的にやってゆくためにも、よき前例にするのが最善の道ではないか、と思うのです。

 

◉住んでいるから、信用できる

昔から住んでいるある方が、おっしゃってました。「毎日人がころころかわるようじゃあ、そこにいる人のことを、信用できなくなっちゃう。ホテルだってシェアだって同じよ。」

住宅街はある意味脆弱な場所です。子どもや老人がふらっと、おさいふももたずにぶらっと出かけても、そこにいるのは顔見知りかそのつながりだとわかってるから、大丈夫。そこでもし一たび事件が起きてしまったら。あっという間にそののんびりとした空気は壊れ、人々同士がお互いを監視したり、疑いの目で通りすがる人を見なければならなくなる時がくるかも。一度お互いを信用しないと決めてしまえば、その土地を愛そうという気風はどんどん低下していきます。なぜなら人は、誰かのふるまいをみて、自分のふるまいを調整していく生き物だから。

個人的には、シェアハウスに暮らした経験もあり、今でもその町が大好きなので、一過性のホテルと、たとえ期間は短いにせよ「住む」経験をするシェアハウスでは、意味合いは異なるように思います。けれど、どっちみち、長いスパンで物事を判断すれば、そこにいる人のサイクルの短さ=責任者が不在、というのは感覚的によくわかる気がします。

これは、高層マンション建設ラッシュになんとなく感じる不安と根っこは同一のものです。多くはしっかりとした管理会社で、きっとセキュリティもサポート体制も考え抜かれているはず。でも何かあって駆けこむこともできなければ、担当者はこのご時世ころころかわる。災害時は遠くで被災されてるかもしれない。そう考えてゆくと、暮らしの場=まちを共有しているはずなのに、同じ空気を吸うことができないような、ちょっとした距離の遠さが俄然気になってしまいます。*1

 

千石は東京の一角です。東京の歴史は、地方人にとっての夢の架け橋であるのに対し、もといた方にとっては、故郷喪失の歴史でもあります。千駄木出身のよしもとばななさんのエッセイを読むと、自分が育った土地が「開発」され、もはや住民のための場所ではなくなってしまったことへの切なさを痛いほど感じます。ジェーン・スーさんの名エッセイもありますね。一方で、今住んでいる人の権利を最優先することが、未来に向かっても正しいと言えるのか、それは既得権益ではないか、という批判もありえます。そもそもまちは誰のための場所なのか? という問題が、これまでの、そしてこれからの東京にはついてまわる問題だと思います。*2

 

 総じて、

◉まちにとっての暮らしの場であるはずの一角が、商業の場として消費されてしまうことへの違和感

を感じました。

 

たとえばそのホテルに誰か住人がいて、その方がここにしっかりと根を下ろし、ご商売をする、というのでは、まち側の不安は解消するのかしら? それとも、たとえば、まちになじんでゆけるように、まちの魅力をもっと伝えられるような、千石らしい雰囲気、情緒のあるホテルになるとか? それか、まちの関係者が使うときすこし実りがあるようにする?*3 

 

いずれにせよ、千石というまちがどんな場所で、今後どんなまちにしたいのか、それを一緒に考えながら、ものづくりをすすめることができたら、幸福な体験になるのではないか、と考えたりしました。

 

 

*1:うちも実家は高層マンションだったりするし、便利だし、友達も住んでるし、高層マンションの存在自体を否定するものではないです! 念のため

*2:もちろん無数に破壊と創造は繰り返されて来たわけで、かならずしも失われるものだけが美しいわけではないのですが。だいたい私だって上京組だし、ひとのことは言えない!

*3:実家が遠い身としては、介護や育児で親がきてくれたとき、近くにとまるところがあるのはありがたい気もします